Design:REUNITED展vol. 09
2012-10-14(Sun)
今年で9回目となるREUNITED展。
長い歴史を持つ油絵を現代の感覚をもって
再構築しようとする美術作家15名による展示会です。
そのチラシをデザインしました。
10月16日〜21日
府中市美術館 1F市民ギャラリー
今年で9回目となるREUNITED展。
長い歴史を持つ油絵を現代の感覚をもって
再構築しようとする美術作家15名による展示会です。
そのチラシをデザインしました。
10月16日〜21日
府中市美術館 1F市民ギャラリー
Biteは、ゲイの存在を様々な角度から
探っていくビジュアルブック。
どちらにも固定されない不安定さ、
曖昧さが持つ可能性を探って行きます。
創刊号はリンゴ特集。
キーフレーズになっている
“Now make a wish and take a bite”は、
ディズニーの白雪姫で、
老婆に化けた王妃が白雪姫に
毒リンゴをすすめる時に言った一言。
「素敵な王子様と幸せになれますように」と願いながら、
白雪姫はカプッと一口食べて気を失ってしまう。
物語が動き出し、可能性と浮遊感に溢れた一番好きなシーン。
それにしても、アダムとイブ同様、
たったのひとかじりで、
もう後戻りはできない境界線をまたがせてしまうリンゴはすごい。
本物のリンゴと偽物のリンゴ、
家の中と外をゆるやかに区切る網戸、
撮影セットの外と中、
自然と人工的な形状が共存する庭、
全裸と着衣。
そこには確実に境界線が存在する。
行き来自由な境界線もあれば、
グラデーションのように美しいものもある。
リンゴ片手に様々な境界線を探ってみた。
ちなみに、今回撮影にモデルとして協力してくれた男子は、
近所のバーで見つけた既婚者。
初回の撮影時には、パンツを脱ぐことをためらっていたが、
3回目の撮影では、おしりはもちろん、
手で前を隠してはいるものの全裸にも。
できることとできないことの境界線は、
とても曖昧で、不確定でした。
次号のBiteもどうぞお楽しみに。
9月1日〜30日まで
新宿二丁目のbar星男にて、
Bite創刊号の販売及び、写真を展示しております。
今度のWHOで特集する江口悟さん。
ニューヨークを拠点とする江口さんとは、
メールを通じて取材を進めています。
江口さんのメール内に
「鏡像段階」という単語が出てきたのをきっかけに、
伊丹十三と精神分析者佐々木孝次が
日本人の精神構造について語る
「快の打ち出の小槌」を読んでみた。
鏡像段階というのは成長過程の一つで、
簡単に言うと、幼児が鏡に映る自分を見て
それを自分の像だと認識することで、
自分だけがいた世界が、
自分と自分でないものとに分裂していく過程らしい。
その後、父親が幼児を欲望の世界から要求の世界へ
引っぱり出すというエディプス期を経て、自我が成立する。
しかし二人は、これはあくまでもヨーロッパ文化の中の話だという。
日本では、鏡像段階で主体が引き裂かれて、
自我の萌芽のようなものができかけたとしても、
更にその裂け目を切開して、
無理矢理、幼児を引っ張り出す「父親」がいないと言う。
次の段階へ移行することを先送りにして、
ディアーデと呼ばれる母と子が作り出す密室にとどまっている日本人は、
断絶も対決も緊張関係もない、
自分というものが相手の心の中にある
二人称の世界に住んでいるという。
そして、伊丹十三と佐々木孝次は
日本人の精神構造が
延長され拡張された母子関係にあるという視点から
様々な日本の現状を分析していく。
その一つに、日本の風景があった。
ヨーロッパの景色というのは、片田舎に行っても都会でも、きちっとしてるというか、
建物や村のたたずまいの中に、常に歴史や文化や自然条件との緊張関係が
様式という形でいきていて放縦が許されていない。
過去と現在が強い緊張関係のうちに向かいあっている。
そういう緊張なしには家一軒建てることがゆるされない。
そういう緊張が作り出した秩序というものが美しさとなって伝わる。
おそらく、貧しさや、稲作におけるさまざまな条件や掟、
あるいは風土というものが快に枷をかけてそういう意味で
昔の日本の農村はある種の美しさを持っていた。
田園も畑も山の木も民家も決してでたらめに作られていない、
という点である種の秩序を持っていた。
しかし、このでたらめを許さないしめつけというのは、内面化されたものではなかった。
あくまでも外的なものに過ぎなかった。
その証拠に経済成長でもって一旦この貧しさという
外からのしめつけがゆるむと人々は一挙に快のみの追求に溺れ込んでゆく。
歴史や文化からのしめつけというのは一切内面化されていないから、
何の緊張も葛藤もなく、人々は伝統を放棄し、ひたすら、てんでんばらばらに、
ほしいままに快を貪り始めた。
その結果というのが、現在のたらめで醜悪で何の節度もない
日本の風景なんだと僕は思いますね。
※快の打ち出の小槌より
確かに、郊外の国道沿いを車で走ると
どこも似たような景色が続く事に
うんざりすることがある。
マスコットやロゴをあしらい
夜間にはこうこうと光る大きな看板、
大手外食産業のチェーン店、
大きな駐車場を持つ
大型ショッピングセンター。
「快」に向かって一斉に、
てんでんばらばらに走ったが、
たどり着いたのは、みな同じような場所のようだ。
日本の各地に存在するそうした風景は
快を求めて同じ方向に走りだした結果を思わせると同時に、
合理主義という名のものとに作られたセットのようにも見える。
牛乳、冷蔵庫、靴は、もちろん
すでに紙で作られているカレンダーでさえ、
他の者と同様の質感で作り換えられるという
江口さんの作品群にも、
ある一つの思想に導かれている感がある。
きっと、機能性や生産性をも失った作品群は、
日常に氾濫する様々な思想とは
全く別の場所に向けて動き出そうと、
丁度、ふわふわと浮遊し始めた所なのだろう。
WHO取材記 大垣美穂子 VOL.04
次号のWHOで特集するのは、大垣美穂子さん。
MORI YU Galleryで行われている美穂子さんの
個展ミルキーウェイ〜ドローイング〜を見にいった。
ミルキーウェイシリーズの立体作品と同様に、
集積し、結晶化された時間を目の前に見せてくれるドローイングの数々。
集積された時間が一斉に輝きだす印象を受ける立体作品と異なり、
ドローイングは、集積された時間が
じわじわと広がって行くという印象を受ける。
どの点から始めて、どの点で終わったんだろう?
どうして、そこで終わったんだろう?
なんて所が気になったりする。
そこには、時間的順序が存在している。
木の年輪や、積もってゆく雪のように
内から外へ、下から上へ。
古いもと新しいものとが混在し、
時間の層が存在していることに気づく。
無意識においては時間が存在しないことをフロイドは発見した。
無意識にはいっさい、矛盾がなく、抑圧がなく、
すべては可能であり、空間の障壁も存在しないという。
われわれが生まれてから何年かの幼児期の記憶を欠いているのは、
脳組織が生理学的に未成熟で、記憶機能がまた充分発達していなかったためではなく、
それが抑圧を知らなかった時期だからであると思う。
裸でいることを恥ずかしがりはじめたとき、
すなわち抑圧を知ったとき、
個人の過去が記憶されはじめたのである。
またエデン園を追われて人類の歴史がはじまったのである。
※岸田秀「ものぐさ精神分析」より
人間の行為には、必ず始まりと終わりがある。
時間というものから解放されることはないのだろう。
だからこそ、エデンの園に憧れるように、
永遠の無意識に憧れ、惹き付けられるのだろう。
美穂子さんのドローイングにも、
無意識というものに対する憧れを感じる。
でも、そこには無意識を意識する意識だったり、
あえて意識してみたり、
手が痛くなってきたりと
様々な意識が働いている。
壁に描かれた星の運行図は、
美穂子さんを学生時代から惹き付けている
いわば、彼女のベースとなっている模様。
過去の作品にもたびたび出てきていて、
これが出てくると作品がまとまるという。
人間の意識を越えた所に存在していながらも、
あたかも誰かの意識が働いているかのような、
きれいな円を星は描く。
美穂子さんのドローイング同様、
意識と無意識の間を行き来しながら作られた
時間の層を見ているようだ。
今彼女が興味を持っているのは即身仏。
瞑想状態のまま絶命するという
決して、想像も、共有もすることができない時間が、
どう作品化されるのか、楽しみです。
WHO取材記 大垣美穂子 VOL.03
次号のWHOで特集するのは、大垣美穂子さん。
今回の取材は、撮影がメイン。
このミルキーウェイシリーズは本当に強いと改めて感じた。
前に美穂子さんが、突き上げる拳一つで空間を支配することができる
ライブ中のミュージシャンがすごくうらやましいと言っていたが、
この作品にも、空間を支配する力がすごくあると思う。
話は変わるが、美穂子さんが時折する高笑いも
相当な支配力を持っていると思う。
前に花見をした時に、
美穂子さんの高笑いを聞いた一人が「やめて〜桜が散る〜」と。
その波動によって、満開の桜が散りかねないと思ったのだ。
桜吹雪をバックにより一層高い高笑いをするかもしれないが、
笑えば笑うほど散っていく桜を多少困惑そうに見つめながら
それでも高笑いをする美穂子さんのイメージが
完全に頭の中でできあがり、しばらく頭から離れなかった。
人のちょっとした失敗がやけに目立ったり、
コップを持つ手が震えて水が全部なくなってしまう、
とんねるずのコントがやけにおもしろかったり。
意図しないことをやってしまっている様って、
おかしさと、滑稽さと、切なさと、痛々しさと、色々混ざって、
もう目を離すことができない強さを持っている。
一体感と高揚感をもって、空間を支配するライブやコンサートよりも
複雑に、深く、空間を支配している感じがする。
そして、彼女の作品にも、そんな要素が混じっているように感じる。
ミルキーウェイシリーズの光を放つ人々は、光りたい人々ではない気がする。
自分をモデルに作ったというシリーズの第一作目は、
光っている自分に対してどこか戸惑っている印象を受ける。
何が起きてるの?もう私死んじゃうの?という感じで。
おばあちゃんに関しては、
光っていることに気付いてなさそうだし、
おじいちゃんは、最後のエネルギーを使われていてるといった感じで苦しそうだ。
ここまで光るエネルギーがあるんだったら
もう少し生きたいぐらい思っていそう。
皆、意図していないのに、あんなにも光り輝いてしまっているという印象を受ける。
そこには、死に対する美穂子さんの理想と願望が形となった
彼女のエゴイスト的な部分も感じる。
圧倒的な強さの隙間から仄かに見える
美穂子さんのエゴイスティックな部分や
光る人々の切なさや痛々しさが
この作品をより魅力的なものにし
より深く空間を支配していると感じる。
今度のWHOで特集するのは、江口悟さん。
身の回りにあるモノに歪みを与え、立体化させた作品。
この作品を作るきっかけになったのは、
2007年にニューヨークの
Japan Societyで展示をしたstudioだという。
「未完成というものに興味がある。
制作途中のモノを見ていると、
自分は一体何をやっているんだろうって思う瞬間がある。
ドローイングだったり、変なオブジェだったり
作品になる前のモノが色々あるスタジオ自体を見せる事で、
そういう瞬間を客観的に見ることができるんじゃないかなって考えていた。」
このアイデアが発展し、studioが完成した。
江口さんの作品の
根底には、自分の視点を他の視点から見たいという欲求がある。
自分の手で自分の手をにぎるという行為を、
フランスの哲学者メルロ・ポンティは、
触る者と触れられる者を同時に体験できる行為と言った。
にぎる側とにぎられる側の
二つの間で意識がいったりきたりできる
意識の所在が流動的で、あやふやな状態。
未完成という、
自分のものになりきっていいない状態下においても
意識や視点は、ふっと移ろいやすいのかもしれない。
好きな映画の一本にあげたシャイニング。
冬の間、豪雪によって外部とは
完全に隔離されるホテルが舞台。
中でも特に好きなシーンがここだと言う。
管理人として住み込み始めたジャックが
巨大な迷路の模型をのぞいている。
カメラアングルが俯瞰となり、
よっていくと、
妻のウェンディと息子のダニーが見えてくる。
そして、二人が楽しそうに歩く場面に切り替わる。
どちらにも固定されてない視点が、
二つの場面の間に存在する。
タイトルになっている、
シャイニングとは、
特殊な能力という意味らしい。
パンをトーストしたら匂いが残るように
どんな行為にも痕が残る。
遠い昔の痕や、未来の痕といった
人には見えない痕を見ることができる力を
コックのハロランとダニーは持っている。
確かにどんな行為にも痕は残る。
寝た痕のようにくり返されて深くなる痕や、
食べた痕のように、ふきんで拭かれ一瞬で消える痕もある。
ただ、パンの粉は無くなるが、今度は拭いた痕が残る。
ケンカした勢いで破れたふすまや、
壁に投げつけて壊れたケータイなんかは
怒りにかられた自分自身を見ているようで、
ついそこから目をそらしたくなるような痕だ。
こちらは、写真の作品。
レストランの名前、ストリートの名前、
メニュー、様々なモノが切り取られ、
どこでもない場所が生まれる。
江口さんが日常につける痕は、
何かが足されると同時に削られて、
何かが削られると同時に足されてできたような
何とも魅力的な痕だ。
取材が終わり、日もすっかり落ちて暗くなった屋上へ案内された。
日常になりかけていたマンハッタンは
川ひとつ挟んだブルックリンの屋上から見ると
全く違う顔をしていた。
そして、お腹もすいたのでタイ料理屋へ。
もちろん、ここでも、江口さんは、
その魚料理がおいしそうでね何ですか?から始まり
近くのおいしいレストランの話まで
隣の席の人との情報交換に余念がない。
江口さんの食に関する情報は、足される一方だ。
これがめちゃめちゃおいしかった。
甘辛い味。
これがその魚料理。
画像江口さんの料理ブログより。
http://www.satorueguchi.com/food-blog/
料理ブログと写真ブログで、
江口さんの動向をうかがいつつ、
次回取材できる日を楽しみにしております。
今度のWHOで特集するのは、江口悟さん。
江口さんが住居兼アトリエをかまえるのは、
ブルックリンにあるグリーンポイントというエリア。
地下鉄の駅からすぐのアパートメントの4階に住んでいる。
間取りは、寝室とスタジオ兼リビング。
キッチンの向こう側にある一部屋は、
人に貸しているそうです。
このキッチンは、
まさに作品で再現されたもの。
作家と作品との繋がりがちらほら見え隠れする自宅やアトリエ。
江口さんの場合は、まさに地続きで繋がっている感じだ。
「色の具合とか、本の並べ方とか、物の置き方とか、
自分らしさっていうのが自然に出ているのが自分の部屋だったりスタジオ。
それを、セルフポートレイトとして見せたいという思いがある。
自分じゃない視点から自分を見てみたい、
自分がどうやって他人になれるか、という思いがある。」
小川洋子の小説の中で、
腹に刻まれた皺から頭部の先端に密集する毛まで
隅々まで神経が行き届いていて
かつて殻の中に生きていた生物の形を克明に留めてる
というような表現があったが、
蝉の抜け殻は、ホントによくできている。
※画像ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/セミ
何年何年も地中で過ごす蝉の幼虫。
共にした時間が長ければ長いほど、
そして、密着度が高ければ高いほど、
「型」は、「中身」に
正確に確実に、情報を伝える。
そして、逆に密着度が低ければ、
間にある空間ににじみ出て、違うものへと変化する。
こちらは、七福神がモチーフとなっている人形焼き。
福をもたらす神様は、
最終的には、小麦粉で作られ、
中にあんこなんかも入れられちゃうんだから、
随分と遠くにきたなぁ〜と思ってるはず。
しかも、目の前には、ナスやらぶどうなんかも
同じフォーマットに落とし込まれて
いっしょくたに、テーブルの上に置かれちゃう。
江口さんの作品が、ひとつまたひとつと、
段ボールから出て来る。
本来の質感は失われ、
同一のフォーマットで統一された作品たち。
少しずつ浸食し始め、
自身の意識もそのフォーマットへと落とし込まれそうになる。
そういえば、
いとうせいこうが見仏記の中で、
ある仏像に対して、大急ぎで鋳型から抜いた感じの、
ちょっと人形焼きに近い印象を受けると言っていた。
アイデアが上手に形をとる前のざわざわした興奮の豊かさがあると。
まさに、そういう場所に意識が落とし込まれそうになる。
箱から次々と出されていくモノたち。
浸食は進み、話は続く。
今度のWHOで特集するのは、江口悟さん。
江口さんは、ニューヨーク在住。
久々に飛行機に乗りました。
空港という場所は楽しい。
近づくにつれて、だだっ広くなって行く感じとか、
持て余し気味の時間に飲むビールとか。
でもいざ、飛行機に乗るとなると、
楽しいことばかりではない。
ピーナツをほおばりながら映画を見て、
一見リビングでくつろいでいる風なのに、
揺れる度に、
上空数千メートルを猛スピードで
移動する巨大な塊の中にいるということを
否応無く意識させられる。
十数時間もの間、
二つの空間を何の前触れもなく、
行ったり来たりさせられるのだ。
でも到着さえすれば、また後は楽しい時間が続く。
緊張から解放され、
出口に向かう際に横目で見る
散らかったファーストクラスの座席も
オレらが国境を守ってるんだという誇りも感じられる
入国審査員との一方的に緊張するやりとりも結構好き。
何はともあれ無事にニューヨークに到着。
翌日江口さんと彼の友人のオープニングにて合流。
そして最近お気に入りだという中華へ。
江口さんは食をすごく楽しんでいる人。
店員におすすめメニューを聞いて、
隣の人のテーブルに美味しそうな料理がのっかっていたら、
ためらいなく話かけてみる。
そして、食べ物ブログ用の写真撮影も忘れない。
そのブログより。
http://www.satorueguchi.com/food-blog/
これ食べました。
羊おいしかったです。
ブログに掲載されている店内写真がすごくおもしろい。
あまりに、ザ・居酒屋すぎて、不自然な印象さえ受ける。
全員劇団員かのような、完璧なたたずまい。
江口さんは、他にフォトブログもやっている。
http://www.satorueguchi.com/photo/
日常を切り取った一枚なのだけど、非日常が見え隠れしている。
こちらは、John Hindeの写真。
すべてが入念にセッティングされ
ザ・○○をつくり出している。
作り込めば作り込むほど、
違和感が出てきてすごく面白い。
じっくり見ていると、一人か二人と目線が合って、ドキっとする。
新聞を広げる旦那の隣に座る老婦人や、
シーソーにまたがる少年が
じっとこちらを見ている。
鑑賞物として安心して一方的に見ていたものが、
何か別のモノへと変化していく瞬間だ。
江口さんがつくり出す非日常は、
日常の延長線上にあり、その間には、
ガッタンという大きな衝撃を引き起こす段差も境目も存在しない。
ただただ美しいグラデーションがある。
それも、緑から黄緑というような、すごく近いグラデーション。
非日常と日常が、こんなにも近い所で共存している。
たまに本物が混じっている。
それは、見るものを更に混乱させ、
ゆらゆらと日常と非日常とを行ったり来たりさせる。
次回は、ブルックリンにある自宅兼アトリエにお邪魔します。
よろしくお願いします。
次号のWHOで特集するのは、大垣美穂子さん。
美緒子さんは2年前に
15年間住んだドイツのデュッセルドルフから帰国し、
今は、取手市に在住。
猫のてっちゃんと
同じく美術作家である旦那さんと、
広い一軒家に住んでいる。
2階には、寝室と、それぞれの書斎があって、
1階には、キッチン、ダイニングリビング、客間と
作品&工具置き場が。
工具と作品で埋め尽くされています。
やはり、立体作品を作るには、
広いスペースは必要不可欠なよう。
制作作業は、基本的にはこの庭でやるそうです。
これは、てっちゃんの遊び道具。
もう少し暖かくなると
てっちゃんがはしゃぐ横で、
美穂子さんが削ったり、くっつけたりと
制作に励む姿が見れるようになるのでしょう。
次に作るのは、ミルキーウェイシリーズの関連作。
「ひとつひとつの光は、感情の粒。
年を重ねれば重ねる程、嫉妬だったり、思いやりだとか、
感情は、すごく複雑になって、どんどん数が増えていく。
そして、星空のような、無数の光となって美しく輝く。」
年を重ねることは、感情の粒が増えていくこと。
すごく素敵な考え方だと思った。
これは、好きな漫画で挙げた山岸凉子の「鬼」。
感情が減っていくことの切なさや、
一つの感情に支配されることの恐ろしさが描かれた短編集。
表題にもなっている「鬼」では、
食いぶちを減らすため、穴の中に捨てられた
男の子が現代の世界に現れる。
永遠に続く空腹と親に捨てられたという絶望的な状況の中、
子供達が持つ感情は少しずつ排除されていき、
親に対する愛憎、友達を食べてしまった罪悪感が残る。
長い時間をかけて、光の粒がひとつ、
またひとつと、ぽつぽつと消え、
残った粒が、200年近くも弱々しく
光り続けた後にスッと消えていく話。
「肥長比売(ひながひめ)」では、
失恋の悲しみのあまり、川に身を投げた女性が
大きな海蛇となって現れる。
一つの粒が他のすべての粒を覆い隠してしまう程巨大化する。
そして、その巨大化したモノは、
ライバル女を深い川の底へとさらっていってしまう。
その他にも好きな漫画には、
萩尾望都や大島弓子等の王道の少女漫画作品が並ぶ。
美穂子さん曰く
「昔からすごく乙女チックに育っている。
大人になるにつれ、デビット・リンチとか、吉原炎上とか、
異質なモノがいっぱい付随してきて、
何だこれ、みたいなものができあがってるけど、
今でも、骨の部分はキャンディキャンディ。
作品にも少女漫画に憧れる少女っぽい部分があると思う。
現実ではありえないことを、想像することで
自分のものにしてしまっていたり、
どこかでハッピーエンドを求めている感じだったり。」
確かに、老人が、星の数程の感情を持って光り輝く姿は、
最高のハッピーエンドのような気がする。
前に展示を見に行った時に
室内の電気をつけてくれたことがあった。
幻想的な光の粒が消え、
蛍光灯にさらされた現実の肉体に
思わずぞっとしてしまった。
やせ細り、朽ちていく体に対して、
僕はどうしても悲劇的な印象を持ってしまう。
「怖いんだけどすごくきれい。
怖い、美しい、両極端の感情が共存するものに魅力を感じる。」
と彼女が言うように、
悲劇とハッピーエンディングが共存する魅力的な作品。
杉原洲志 Shuji Sugihara
1976年生神奈川生まれ。
WHO編集長/アートディレクター
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
« 4月 | ||||||
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
WHOメルマガ購読申込はこちらから
メルマガバックナンバーはこちらから
Info more...