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WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.03

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2014-2-1(Sat)

WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.03

佐藤さんの「ダテマキ」の展示を見に行きました。
伊達巻きを作る様々な行程が
プロジェクションされています。

卵を主原料とする黄色液体が
かき回され、平になり、熱せられる等
機械によって様々な処理が加えられていきます。
その扱いが何か馴れすぎている。
あ、もうちょっとゆっくりとか、
そういうコミュニケーションは一切存在せず
あれよあれよという間に伊達巻き化されてゆく。
着々と作業を進めていく機械の動きに
PC上で見た一枚の画像からは感じなかった
残酷さのようなものもを感じました。

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それでも伊達巻きを作る機械の動きは、人間の動きを元にしている。
元をたどれば、とろみ具合、巻き具合は、こんなもんかな?と
たえず卵の状態をみながら、次の行程に移るという、
人間の手作業にたどり着くはず。
長い年月をかけて語り継がれたおとぎ話が
人間の愚かさや残虐性を隠して持っているように、
効率よくおいしい伊達巻きを作るために進化した動きは
人と卵の対話の部分を隠し持っている。

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こちらはソフィ・カルの「本当の話」。
この間知り合いから借りた本なのだが、
10年以上も前に佐藤さんからもらった本だと言う。
ソフィ・カルは、たいして面識のない男を
ベネチアまでおっかけていき町中を尾行したり、
探偵を雇い自らを尾行させたりする。
この本は、その時に撮った写真、文章や探偵の報告書で構成されている。

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最近いつ尾行したかはちょっと記憶にないけど、
小学校の時、学校からの帰りに何人かの友達で、
クラスメートを尾行することが流行ったことがある。
いつ後ろを振り向いて気づかれるかもしれないというスリルはもちろん
一定の距離を保ちながら後からついていくことがやけに楽しかった。
教室の中とも、遊んでいる時とも違う
こちらが一方的にとる不思議な距離感。
その距離感で見る、いつもの通学路を歩くクラスメートの姿は、
どこか他人のようにも見えたのだと思う。
だから、その距離感を保ったまま終わることに居心地の悪さを感じ、
毎回、皆で後ろからかけていって、気づかなかったでしょなんて言いながら
クラスメートに軽く体当たりするところで尾行は終わった。

「本当の話」の巻末にあった、
ジャン・ボードリヤールの解説「プリーズ・フォロー・ミー」には
こんなことが書かれていた。

「他者を尾行すること、それは他者に事実上二重の生を与え、並行する存在を与えることだ。
こうした二重化の効果こそがありきたりのオブジェを超現実化し、
そのまわりに誘惑の奇妙な(時として危険な?)網を張りめぐらす。」

「他者の後をつける者もまた自らの重荷を軽減される。
なぜならそれは他者の足跡へと盲目的に身を投じることなのだから。
ここにもまた驚くべき相互作用がある。
両者にとってそれは自らの固有の存在の解消であり、
主体としての場所を保持するという耐えがたい努めの解消なのだ。」

「ダテマキ」は福島県いわき市にある丸又蒲鉾製造で撮影された映像を
PCに取り込みそれをトレースするという方法で作られている。
「なるべく撮った写真に近づけるようにしています。
アナログの絵だと筆跡や、絵具の重なりでボコボコしたり、痕跡が残る。
デジタルで絵を描く上で自分が取り組んでいるのは、アナログの世界ではできないこと。
デジタルの世界はすべてが0と1に還元されていくから風合いですら数字になる。」
と佐藤さんが以前言っていた。
何かを強調することも、筆跡は残すようなこともせず、
現実に近づけることを意識してPC上で画像をトレースしてゆく
佐藤さんの制作方法は、モチーフの後をぴったりとつける尾行のよう。
離れることも近づく事もなく、最初から最後まである一定の距離を保ち、
目に見えるもののみが写し取られた虚と実が入り交じった世界。
そうしてできた絵の集合体で動く機械は、
モチーフに完全にコントロールされた動きのようにも
効率よくおいしい伊達巻きを作るという役割や目的から解放された
もしくは、それらを見失った迷子のようにも見える。
おとぎ話に出てくる工場のように
ひたすらダテマキを作り続けている。

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WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.02

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2013-8-9(Fri)

WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.02

ある時、佐藤さんに会ったら
すごく日に焼けていた。
夏の間に会う佐藤さんは大抵の場合
カーキー色のタンクトップを着ているので、
いつも同じ印象を受ける。
だからか、いつもと違う佐藤さんの姿を見て、
これはちょっとした事件だと思い、
何事があったのかと理由を聞いてみると、なんてことはない
「毎日買い出ししているからね。」ということだった。
毎日の20分程度の自転車で
少しつづ日に焼けていくのはもちろん理解できる。
それでも、そんなはずはないでしょう、
そのいつもと違う感じは、
それに見合った何か特別な行為の結果でしょう
と勝手に思って何かすっきりとしない気分だった。

対して、こちらのデニス・オッペンハイムの
その名もReading Position for Second Degree Burn
(日焼けの第二段階のための読書姿勢)は
行為と結果が直結したような跡。
その間には何の誤解も一方的な見解もなく、
何かを置いて、そして取り除いた行為を
的確に表している跡だ。

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今度の佐藤さんの作品は伊達巻き作る工場が舞台。
まぜる、のばす、焼く、切る。
必要な跡がついたものが次の行程へと
進み最終的に商品となる。
工場の生産過程はそうした跡をつけているようで、
跡を消す作業のようにも見える。
何十年、何百年と生きた木材や
何万年もの時間を経てできる石油など原料が、
いくつもの跡をつけられて
何の跡もついていないような
真新しいものに生まれ変わっていく。

真っ白なおニューの靴を学校に履いて行った日は
その靴を欲しがった自分がそのまま靴に表れているようで、
少し気恥ずかしかったことを覚えている。
そして、校庭を走り回り、泥道を歩き、
段々と跡をつけていくことで、
購入したという行為の跡は薄れていくのだ。

佐藤さんの作品は、写真をなぞるという行為で出来上がる。
今回は、東日本大震災の津波によって多大な被害を受けた
福島県いわき市にある丸又蒲鉾製造で撮影したものを
パソコンに取り込みトレースし
それをつなぎあわせてアニメーションにしている。
跡をつける機械も、その機械がつけた跡も
同じルールでトレースされていく。
その跡は決してつけられたものではなく
描かれてものだ。
跡をつけるモノとつけられたモノの差は消失し、
同等のものとして目に映る。
そして、いくら精巧に現実をトレースしているとはいえ、
それが描かれたものだと分かれば現実感は失われていく。

「日常という言葉を使うことによって
物のとらえ方が断絶する可能性がある。」
と佐藤さんは言う。
とっかかりやすい言葉ではあるが
今までの日常を取り戻そうとしている日常があったり
様々な日常があるのに、
何かいろいろなことをひとまとめてしてしまっていると。

佐藤さんが現実をトレースすることでできる跡は、
まさに、この「日常」という言葉によって
様々なものが内面化、透明化されていった跡のようだ。
その跡は何かが消失した跡でもあるけれど
同時に何かを露にする跡となるのでしょう。

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WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.01

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2013-7-9(Tue)

WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.01

アートペーパーWHOvol.01で特集した佐藤雅晴さん。

アニメーションの手法を使い
現代美術作品を発表する佐藤雅晴さんの
映像作品を初めて見たのは、
2009年の岡本太郎現代芸術賞展で
展示された「Avatar11」でした。

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横一列に並んだ11つのモニターに映されていたのは
人が振り向くというアニメショーン。

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中でも、車の運転席から後部座席に振り向くように
こちらに顔をむけるドイツ人男性が印象的。
「どこに行こうか」「着きましたよ」といった感じで
タクシーや知人の車等でよくある
シチュエーションだからかもしれない。

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ちょっと悲しげな表情で、何か言いづらそうな感じも気になる。
聞けば、モデルは佐藤さんがドイツに滞在していた時の知人で、
クラシックカーの愛好家だと言う。
何か言いたげにゆっくりと振り向かれると
「汚してないですっ」という気分にもなる。
そして、用が終わったかのようにまた前を向く。
それを永遠繰り返す。

ストーリーが展開していくにつれて、
登場人物に対して、感情移入できたり、愛着を感じるアニメーションと異なり、
佐藤さんのアニメーションは、
長い間その前ですごせばすごすほど、
逆に主人公たちの人間くささが失われていく。

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で、
兄弟の父であるフョードル・カラマーゾフが
物語の冒頭、こんなことを言っていた。
「どこかのフランス人が地獄のことをそんなふうに書いていたっけ。
(わたしはブラシの影で馬車の影を磨く御者の影を見た)とかな。」

影の主であるブラシや馬車や人を完全に無視した
この表現がすごく印象的だった。
よく知っているモノの存在がいきなり排除されたような、
一部だけ見てそこが世界のすべてであると言っているかのような、
何か得体の知れない居心地の悪さがあった。

佐藤さんのアニメーション作品に対しても
同じような居心地の悪さを感じる時がある。
現実の風景と見間違う程に精巧にトレースされた世界が
プチンっとつなぐ糸が切れたかのように
ある瞬間何ものにも従属しない世界へと変わる。
知っているものが、知らないものへ、
理解していたものが、理解できないものへと。

さらに居心地を悪くさせるのが、
「Avatar11」の11という数。
11人がランダムにこちらに振り向いてくるという状況にいると
どうしても見ているという感覚よりも
見られているという感覚の方が強くなる。
しかも、彼らの視線が何を求めているのか
全く検討もつかない。

私たちがモノを見る時の
その対象物を
理解しようと、所有しようとする視線を
見事にはねかえして、
逆にどこに答えがあるかさえ分からない疑問を
投げかけてくるのです。



WHO取材記 大垣美穂子 VOL.05

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2013-4-5(Fri)

WHO取材記 大垣美穂子 VOL.05

次号のWHOで特集するのは、大垣美穂子さん。

即身仏に興味を持つ大垣さんが今回対談相手に選んだのは、
即身仏の研究者であり、民俗学者・写真家の内藤正敏さん。

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内藤さんは、学生時代には化学を学び
化学反応を取り入れた写真作品を制作していたとのこと。
そして25歳の時に即身仏と出会い
以来、東北地方の民間信仰や民俗にどっぷりとはまって、
民俗学者、写真家として、数々の書籍、写真集を刊行してきました。

こちらは、死者の霊を呼ぶ口寄せ巫女を撮った「婆バクハツ!」より。
内藤さんの被写体は、目の前の人物から風景まで拡大してゆき、
光が届くかどうか分からない闇にむけてフラッシュを焚き、
浮かび上がるものをとらえ続けてきました。

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「日本文化は3つぐらいの目ん玉を
持ってないと解読できないです。」と内藤さん。

そして、大垣さんの作品には、
全然違う話を想像力でつないでいく面白さ、
その重層性を解読する面白さがあると。

無数のビーズで覆われた宮型霊柩車「before the beginning -after the end#2-」に対して、
世界が映りこんだミクロコスモスが集まって、
まるで、華厳経の世界のように、
「生」と「死」のマクロコスモスを形成していると内藤さん。
地球生命35億年、宇宙、修験道、即身仏といった
独特の世界観とリンクさせながら、大垣さんの作品を解読していきます。

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今回の対談で印象的だったのは、
「生からは死は視えないが、死からは生の本質がよく視えるんですよね。」
という内藤さんの言葉。

誰もが経験したことのない死の世界は、
どういうものなのか検討もつかない
私たちにとっては、まっくらな闇のような世界。
即身仏には、死へと境界をまたいでいった想像を絶する時間を
集積させたような圧倒的な存在感があります。
大垣さんは、即身仏に憧れながらも、
即身仏の強さを目指しているわけではない。
「作品を通じて、作品を見る人と同じ生の側から、
生と死を描いて行きたい」と。

死という闇の世界を生の側から凝視し続け、
生の本質を具現化しようと試みる二人の
知識と好奇心あふれる対談です。

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WHO取材記 江口悟 VOL.04

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2012-6-28(Thu)

今度のWHOで特集する江口悟さん。

ニューヨークを拠点とする江口さんとは、
メールを通じて取材を進めています。

江口さんのメール内に
「鏡像段階」という単語が出てきたのをきっかけに、
伊丹十三と精神分析者佐々木孝次が
日本人の精神構造について語る
「快の打ち出の小槌」を読んでみた。

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鏡像段階というのは成長過程の一つで、
簡単に言うと、幼児が鏡に映る自分を見て
それを自分の像だと認識することで、
自分だけがいた世界が、
自分と自分でないものとに分裂していく過程らしい。

その後、父親が幼児を欲望の世界から要求の世界へ
引っぱり出すというエディプス期を経て、自我が成立する。
しかし二人は、これはあくまでもヨーロッパ文化の中の話だという。

日本では、鏡像段階で主体が引き裂かれて、
自我の萌芽のようなものができかけたとしても、
更にその裂け目を切開して、
無理矢理、幼児を引っ張り出す「父親」がいないと言う。

次の段階へ移行することを先送りにして、
ディアーデと呼ばれる母と子が作り出す密室にとどまっている日本人は、
断絶も対決も緊張関係もない、
自分というものが相手の心の中にある
二人称の世界に住んでいるという。

そして、伊丹十三と佐々木孝次は
日本人の精神構造が
延長され拡張された母子関係にあるという視点から
様々な日本の現状を分析していく。
その一つに、日本の風景があった。

ヨーロッパの景色というのは、片田舎に行っても都会でも、きちっとしてるというか、
建物や村のたたずまいの中に、常に歴史や文化や自然条件との緊張関係が
様式という形でいきていて放縦が許されていない。
過去と現在が強い緊張関係のうちに向かいあっている。
そういう緊張なしには家一軒建てることがゆるされない。
そういう緊張が作り出した秩序というものが美しさとなって伝わる。
おそらく、貧しさや、稲作におけるさまざまな条件や掟、
あるいは風土というものが快に枷をかけてそういう意味で
昔の日本の農村はある種の美しさを持っていた。
田園も畑も山の木も民家も決してでたらめに作られていない、
という点である種の秩序を持っていた。
しかし、このでたらめを許さないしめつけというのは、内面化されたものではなかった。
あくまでも外的なものに過ぎなかった。
その証拠に経済成長でもって一旦この貧しさという
外からのしめつけがゆるむと人々は一挙に快のみの追求に溺れ込んでゆく。
歴史や文化からのしめつけというのは一切内面化されていないから、
何の緊張も葛藤もなく、人々は伝統を放棄し、ひたすら、てんでんばらばらに、
ほしいままに快を貪り始めた。
その結果というのが、現在のたらめで醜悪で何の節度もない
日本の風景なんだと僕は思いますね。
※快の打ち出の小槌より
 
 
確かに、郊外の国道沿いを車で走ると
どこも似たような景色が続く事に
うんざりすることがある。

マスコットやロゴをあしらい
夜間にはこうこうと光る大きな看板、
大手外食産業のチェーン店、
大きな駐車場を持つ
大型ショッピングセンター。

「快」に向かって一斉に、
てんでんばらばらに走ったが、
たどり着いたのは、みな同じような場所のようだ。

日本の各地に存在するそうした風景は
快を求めて同じ方向に走りだした結果を思わせると同時に、
合理主義という名のものとに作られたセットのようにも見える。

牛乳、冷蔵庫、靴は、もちろん
すでに紙で作られているカレンダーでさえ、
他の者と同様の質感で作り換えられるという
江口さんの作品群にも、
ある一つの思想に導かれている感がある。
  
  

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質感が統一された作品群が持つ
思想が何だかは分からない。

きっと、機能性や生産性をも失った作品群は、
日常に氾濫する様々な思想とは
全く別の場所に向けて動き出そうと、
丁度、ふわふわと浮遊し始めた所なのだろう。
  
 
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WHO取材記 大垣美穂子 VOL.04

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2012-6-20(Wed)

WHO取材記 大垣美穂子 VOL.04

次号のWHOで特集するのは、大垣美穂子さん。

MORI YU Galleryで行われている美穂子さんの
個展ミルキーウェイ〜ドローイング〜を見にいった。

ミルキーウェイシリーズの立体作品と同様に、
集積し、結晶化された時間を目の前に見せてくれるドローイングの数々。

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集積された時間が一斉に輝きだす印象を受ける立体作品と異なり、
ドローイングは、集積された時間が
じわじわと広がって行くという印象を受ける。

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どの点から始めて、どの点で終わったんだろう?
どうして、そこで終わったんだろう?
なんて所が気になったりする。

そこには、時間的順序が存在している。
木の年輪や、積もってゆく雪のように
内から外へ、下から上へ。
古いもと新しいものとが混在し、
時間の層が存在していることに気づく。

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無意識においては時間が存在しないことをフロイドは発見した。
無意識にはいっさい、矛盾がなく、抑圧がなく、
すべては可能であり、空間の障壁も存在しないという。

われわれが生まれてから何年かの幼児期の記憶を欠いているのは、
脳組織が生理学的に未成熟で、記憶機能がまた充分発達していなかったためではなく、
それが抑圧を知らなかった時期だからであると思う。
裸でいることを恥ずかしがりはじめたとき、
すなわち抑圧を知ったとき、
個人の過去が記憶されはじめたのである。
またエデン園を追われて人類の歴史がはじまったのである。
※岸田秀「ものぐさ精神分析」より

人間の行為には、必ず始まりと終わりがある。
時間というものから解放されることはないのだろう。
だからこそ、エデンの園に憧れるように、
永遠の無意識に憧れ、惹き付けられるのだろう。

美穂子さんのドローイングにも、
無意識というものに対する憧れを感じる。
でも、そこには無意識を意識する意識だったり、
あえて意識してみたり、
手が痛くなってきたりと
様々な意識が働いている。

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壁に描かれた星の運行図は、
美穂子さんを学生時代から惹き付けている
いわば、彼女のベースとなっている模様。
過去の作品にもたびたび出てきていて、
これが出てくると作品がまとまるという。

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人間の意識を越えた所に存在していながらも、
あたかも誰かの意識が働いているかのような、
きれいな円を星は描く。
美穂子さんのドローイング同様、
意識と無意識の間を行き来しながら作られた
時間の層を見ているようだ。

今彼女が興味を持っているのは即身仏。
瞑想状態のまま絶命するという
決して、想像も、共有もすることができない時間が、
どう作品化されるのか、楽しみです。



WHO取材記 大垣美穂子 VOL.03

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2012-6-7(Thu)

WHO取材記 大垣美穂子 VOL.03

次号のWHOで特集するのは、大垣美穂子さん。

今回の取材は、撮影がメイン。

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このミルキーウェイシリーズは本当に強いと改めて感じた。
前に美穂子さんが、突き上げる拳一つで空間を支配することができる
ライブ中のミュージシャンがすごくうらやましいと言っていたが、
この作品にも、空間を支配する力がすごくあると思う。

話は変わるが、美穂子さんが時折する高笑いも
相当な支配力を持っていると思う。
前に花見をした時に、
美穂子さんの高笑いを聞いた一人が「やめて〜桜が散る〜」と。
その波動によって、満開の桜が散りかねないと思ったのだ。

桜吹雪をバックにより一層高い高笑いをするかもしれないが、
笑えば笑うほど散っていく桜を多少困惑そうに見つめながら
それでも高笑いをする美穂子さんのイメージが
完全に頭の中でできあがり、しばらく頭から離れなかった。

人のちょっとした失敗がやけに目立ったり、
コップを持つ手が震えて水が全部なくなってしまう、
とんねるずのコントがやけにおもしろかったり。
意図しないことをやってしまっている様って、
おかしさと、滑稽さと、切なさと、痛々しさと、色々混ざって、
もう目を離すことができない強さを持っている。

一体感と高揚感をもって、空間を支配するライブやコンサートよりも
複雑に、深く、空間を支配している感じがする。
そして、彼女の作品にも、そんな要素が混じっているように感じる。

ミルキーウェイシリーズの光を放つ人々は、光りたい人々ではない気がする。
自分をモデルに作ったというシリーズの第一作目は、
光っている自分に対してどこか戸惑っている印象を受ける。
何が起きてるの?もう私死んじゃうの?という感じで。
おばあちゃんに関しては、
光っていることに気付いてなさそうだし、
おじいちゃんは、最後のエネルギーを使われていてるといった感じで苦しそうだ。
ここまで光るエネルギーがあるんだったら
もう少し生きたいぐらい思っていそう。
皆、意図していないのに、あんなにも光り輝いてしまっているという印象を受ける。
そこには、死に対する美穂子さんの理想と願望が形となった
彼女のエゴイスト的な部分も感じる。

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圧倒的な強さの隙間から仄かに見える
美穂子さんのエゴイスティックな部分や
光る人々の切なさや痛々しさが
この作品をより魅力的なものにし
より深く空間を支配していると感じる。

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WHO取材記 江口悟 VOL.03

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2012-3-23(Fri)

今度のWHOで特集するのは、江口悟さん。

身の回りにあるモノに歪みを与え、立体化させた作品。
この作品を作るきっかけになったのは、
2007年にニューヨークの
Japan Societyで展示をしたstudioだという。

「未完成というものに興味がある。
制作途中のモノを見ていると、
自分は一体何をやっているんだろうって思う瞬間がある。
ドローイングだったり、変なオブジェだったり
作品になる前のモノが色々あるスタジオ自体を見せる事で、
そういう瞬間を客観的に見ることができるんじゃないかなって考えていた。」

このアイデアが発展し、studioが完成した。

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江口さんの作品の
根底には、自分の視点を他の視点から見たいという欲求がある。

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自分の手で自分の手をにぎるという行為を、
フランスの哲学者メルロ・ポンティは、
触る者と触れられる者を同時に体験できる行為と言った。

にぎる側とにぎられる側の
二つの間で意識がいったりきたりできる
意識の所在が流動的で、あやふやな状態。
未完成という、
自分のものになりきっていいない状態下においても
意識や視点は、ふっと移ろいやすいのかもしれない。

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好きな映画の一本にあげたシャイニング。
冬の間、豪雪によって外部とは
完全に隔離されるホテルが舞台。

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中でも特に好きなシーンがここだと言う。
管理人として住み込み始めたジャックが
巨大な迷路の模型をのぞいている。
カメラアングルが俯瞰となり、
よっていくと、
妻のウェンディと息子のダニーが見えてくる。
そして、二人が楽しそうに歩く場面に切り替わる。
どちらにも固定されてない視点が、
二つの場面の間に存在する。

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タイトルになっている、
シャイニングとは、
特殊な能力という意味らしい。

パンをトーストしたら匂いが残るように
どんな行為にも痕が残る。
遠い昔の痕や、未来の痕といった
人には見えない痕を見ることができる力を
コックのハロランとダニーは持っている。

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確かにどんな行為にも痕は残る。
寝た痕のようにくり返されて深くなる痕や、
食べた痕のように、ふきんで拭かれ一瞬で消える痕もある。
ただ、パンの粉は無くなるが、今度は拭いた痕が残る。
ケンカした勢いで破れたふすまや、
壁に投げつけて壊れたケータイなんかは
怒りにかられた自分自身を見ているようで、
ついそこから目をそらしたくなるような痕だ。

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こちらは、写真の作品。
レストランの名前、ストリートの名前、
メニュー、様々なモノが切り取られ、
どこでもない場所が生まれる。

江口さんが日常につける痕は、
何かが足されると同時に削られて、
何かが削られると同時に足されてできたような
何とも魅力的な痕だ。

取材が終わり、日もすっかり落ちて暗くなった屋上へ案内された。
日常になりかけていたマンハッタンは
川ひとつ挟んだブルックリンの屋上から見ると
全く違う顔をしていた。

そして、お腹もすいたのでタイ料理屋へ。

もちろん、ここでも、江口さんは、
その魚料理がおいしそうでね何ですか?から始まり
近くのおいしいレストランの話まで
隣の席の人との情報交換に余念がない。
江口さんの食に関する情報は、足される一方だ。

これがめちゃめちゃおいしかった。
甘辛い味。

これがその魚料理。

画像江口さんの料理ブログより。
http://www.satorueguchi.com/food-blog/

料理ブログと写真ブログで、
江口さんの動向をうかがいつつ、
次回取材できる日を楽しみにしております。



WHO取材記 江口悟 VOL.02

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2012-3-22(Thu)

今度のWHOで特集するのは、江口悟さん。

江口さんが住居兼アトリエをかまえるのは、
ブルックリンにあるグリーンポイントというエリア。
地下鉄の駅からすぐのアパートメントの4階に住んでいる。

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間取りは、寝室とスタジオ兼リビング。
キッチンの向こう側にある一部屋は、
人に貸しているそうです。

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このキッチンは、
まさに作品で再現されたもの。

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作家と作品との繋がりがちらほら見え隠れする自宅やアトリエ。
江口さんの場合は、まさに地続きで繋がっている感じだ。

「色の具合とか、本の並べ方とか、物の置き方とか、
自分らしさっていうのが自然に出ているのが自分の部屋だったりスタジオ。
それを、セルフポートレイトとして見せたいという思いがある。
自分じゃない視点から自分を見てみたい、
自分がどうやって他人になれるか、という思いがある。」

小川洋子の小説の中で、
腹に刻まれた皺から頭部の先端に密集する毛まで
隅々まで神経が行き届いていて
かつて殻の中に生きていた生物の形を克明に留めてる
というような表現があったが、
蝉の抜け殻は、ホントによくできている。

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※画像ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/セミ

何年何年も地中で過ごす蝉の幼虫。
共にした時間が長ければ長いほど、
そして、密着度が高ければ高いほど、
「型」は、「中身」に
正確に確実に、情報を伝える。
そして、逆に密着度が低ければ、
間にある空間ににじみ出て、違うものへと変化する。

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こちらは、七福神がモチーフとなっている人形焼き。
福をもたらす神様は、
最終的には、小麦粉で作られ、
中にあんこなんかも入れられちゃうんだから、
随分と遠くにきたなぁ〜と思ってるはず。
しかも、目の前には、ナスやらぶどうなんかも
同じフォーマットに落とし込まれて
いっしょくたに、テーブルの上に置かれちゃう。

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江口さんの作品が、ひとつまたひとつと、
段ボールから出て来る。

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本来の質感は失われ、
同一のフォーマットで統一された作品たち。
少しずつ浸食し始め、
自身の意識もそのフォーマットへと落とし込まれそうになる。

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そういえば、
いとうせいこうが見仏記の中で、
ある仏像に対して、大急ぎで鋳型から抜いた感じの、
ちょっと人形焼きに近い印象を受けると言っていた。
アイデアが上手に形をとる前のざわざわした興奮の豊かさがあると。

まさに、そういう場所に意識が落とし込まれそうになる。

箱から次々と出されていくモノたち。
浸食は進み、話は続く。

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WHO取材記 江口悟 VOL.01

カテゴリ:

2012-3-21(Wed)

今度のWHOで特集するのは、江口悟さん。

江口さんは、ニューヨーク在住。
久々に飛行機に乗りました。

空港という場所は楽しい。
近づくにつれて、だだっ広くなって行く感じとか、
持て余し気味の時間に飲むビールとか。

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でもいざ、飛行機に乗るとなると、
楽しいことばかりではない。
ピーナツをほおばりながら映画を見て、
一見リビングでくつろいでいる風なのに、
揺れる度に、
上空数千メートルを猛スピードで
移動する巨大な塊の中にいるということを
否応無く意識させられる。
十数時間もの間、
二つの空間を何の前触れもなく、
行ったり来たりさせられるのだ。

でも到着さえすれば、また後は楽しい時間が続く。
緊張から解放され、
出口に向かう際に横目で見る
散らかったファーストクラスの座席も
オレらが国境を守ってるんだという誇りも感じられる
入国審査員との一方的に緊張するやりとりも結構好き。

何はともあれ無事にニューヨークに到着。
翌日江口さんと彼の友人のオープニングにて合流。
そして最近お気に入りだという中華へ。

江口さんは食をすごく楽しんでいる人。
店員におすすめメニューを聞いて、
隣の人のテーブルに美味しそうな料理がのっかっていたら、
ためらいなく話かけてみる。
そして、食べ物ブログ用の写真撮影も忘れない。

そのブログより。
http://www.satorueguchi.com/food-blog/

これ食べました。
羊おいしかったです。

ブログに掲載されている店内写真がすごくおもしろい。
あまりに、ザ・居酒屋すぎて、不自然な印象さえ受ける。
全員劇団員かのような、完璧なたたずまい。

江口さんは、他にフォトブログもやっている。
http://www.satorueguchi.com/photo/
日常を切り取った一枚なのだけど、非日常が見え隠れしている。

こちらは、John Hindeの写真。
すべてが入念にセッティングされ
ザ・○○をつくり出している。
作り込めば作り込むほど、
違和感が出てきてすごく面白い。

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じっくり見ていると、一人か二人と目線が合って、ドキっとする。
新聞を広げる旦那の隣に座る老婦人や、
シーソーにまたがる少年が
じっとこちらを見ている。
鑑賞物として安心して一方的に見ていたものが、
何か別のモノへと変化していく瞬間だ。

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江口さんがつくり出す非日常は、
日常の延長線上にあり、その間には、
ガッタンという大きな衝撃を引き起こす段差も境目も存在しない。
ただただ美しいグラデーションがある。
それも、緑から黄緑というような、すごく近いグラデーション。
非日常と日常が、こんなにも近い所で共存している。

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たまに本物が混じっている。
それは、見るものを更に混乱させ、
ゆらゆらと日常と非日常とを行ったり来たりさせる。

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次回は、ブルックリンにある自宅兼アトリエにお邪魔します。
よろしくお願いします。



         

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editor profile

杉原洲志 Shuji Sugihara
1976年生神奈川生まれ。
WHO編集長/アートディレクター

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