WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.02
2013-8-9(Fri)
WHO取材記 佐藤雅晴 VOL.02
ある時、佐藤さんに会ったら
すごく日に焼けていた。
夏の間に会う佐藤さんは大抵の場合
カーキー色のタンクトップを着ているので、
いつも同じ印象を受ける。
だからか、いつもと違う佐藤さんの姿を見て、
これはちょっとした事件だと思い、
何事があったのかと理由を聞いてみると、なんてことはない
「毎日買い出ししているからね。」ということだった。
毎日の20分程度の自転車で
少しつづ日に焼けていくのはもちろん理解できる。
それでも、そんなはずはないでしょう、
そのいつもと違う感じは、
それに見合った何か特別な行為の結果でしょう
と勝手に思って何かすっきりとしない気分だった。
対して、こちらのデニス・オッペンハイムの
その名もReading Position for Second Degree Burn
(日焼けの第二段階のための読書姿勢)は
行為と結果が直結したような跡。
その間には何の誤解も一方的な見解もなく、
何かを置いて、そして取り除いた行為を
的確に表している跡だ。
今度の佐藤さんの作品は伊達巻き作る工場が舞台。
まぜる、のばす、焼く、切る。
必要な跡がついたものが次の行程へと
進み最終的に商品となる。
工場の生産過程はそうした跡をつけているようで、
跡を消す作業のようにも見える。
何十年、何百年と生きた木材や
何万年もの時間を経てできる石油など原料が、
いくつもの跡をつけられて
何の跡もついていないような
真新しいものに生まれ変わっていく。
真っ白なおニューの靴を学校に履いて行った日は
その靴を欲しがった自分がそのまま靴に表れているようで、
少し気恥ずかしかったことを覚えている。
そして、校庭を走り回り、泥道を歩き、
段々と跡をつけていくことで、
購入したという行為の跡は薄れていくのだ。
佐藤さんの作品は、写真をなぞるという行為で出来上がる。
今回は、東日本大震災の津波によって多大な被害を受けた
福島県いわき市にある丸又蒲鉾製造で撮影したものを
パソコンに取り込みトレースし
それをつなぎあわせてアニメーションにしている。
跡をつける機械も、その機械がつけた跡も
同じルールでトレースされていく。
その跡は決してつけられたものではなく
描かれてものだ。
跡をつけるモノとつけられたモノの差は消失し、
同等のものとして目に映る。
そして、いくら精巧に現実をトレースしているとはいえ、
それが描かれたものだと分かれば現実感は失われていく。
「日常という言葉を使うことによって
物のとらえ方が断絶する可能性がある。」
と佐藤さんは言う。
とっかかりやすい言葉ではあるが
今までの日常を取り戻そうとしている日常があったり
様々な日常があるのに、
何かいろいろなことをひとまとめてしてしまっていると。
佐藤さんが現実をトレースすることでできる跡は、
まさに、この「日常」という言葉によって
様々なものが内面化、透明化されていった跡のようだ。
その跡は何かが消失した跡でもあるけれど
同時に何かを露にする跡となるのでしょう。
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