Report: Eguchi Satoru VOL.04
2012-6-28(Thursday)
今度のWHOで特集する江口悟さん。
ニューヨークを拠点とする江口さんとは、
メールを通じて取材を進めています。
江口さんのメール内に
「鏡像段階」という単語が出てきたのをきっかけに、
伊丹十三と精神分析者佐々木孝次が
日本人の精神構造について語る
「快の打ち出の小槌」を読んでみた。
鏡像段階というのは成長過程の一つで、
簡単に言うと、幼児が鏡に映る自分を見て
それを自分の像だと認識することで、
自分だけがいた世界が、
自分と自分でないものとに分裂していく過程らしい。
その後、父親が幼児を欲望の世界から要求の世界へ
引っぱり出すというエディプス期を経て、自我が成立する。
しかし二人は、これはあくまでもヨーロッパ文化の中の話だという。
日本では、鏡像段階で主体が引き裂かれて、
自我の萌芽のようなものができかけたとしても、
更にその裂け目を切開して、
無理矢理、幼児を引っ張り出す「父親」がいないと言う。
次の段階へ移行することを先送りにして、
ディアーデと呼ばれる母と子が作り出す密室にとどまっている日本人は、
断絶も対決も緊張関係もない、
自分というものが相手の心の中にある
二人称の世界に住んでいるという。
そして、伊丹十三と佐々木孝次は
日本人の精神構造が
延長され拡張された母子関係にあるという視点から
様々な日本の現状を分析していく。
その一つに、日本の風景があった。
ヨーロッパの景色というのは、片田舎に行っても都会でも、きちっとしてるというか、
建物や村のたたずまいの中に、常に歴史や文化や自然条件との緊張関係が
様式という形でいきていて放縦が許されていない。
過去と現在が強い緊張関係のうちに向かいあっている。
そういう緊張なしには家一軒建てることがゆるされない。
そういう緊張が作り出した秩序というものが美しさとなって伝わる。
おそらく、貧しさや、稲作におけるさまざまな条件や掟、
あるいは風土というものが快に枷をかけてそういう意味で
昔の日本の農村はある種の美しさを持っていた。
田園も畑も山の木も民家も決してでたらめに作られていない、
という点である種の秩序を持っていた。
しかし、このでたらめを許さないしめつけというのは、内面化されたものではなかった。
あくまでも外的なものに過ぎなかった。
その証拠に経済成長でもって一旦この貧しさという
外からのしめつけがゆるむと人々は一挙に快のみの追求に溺れ込んでゆく。
歴史や文化からのしめつけというのは一切内面化されていないから、
何の緊張も葛藤もなく、人々は伝統を放棄し、ひたすら、てんでんばらばらに、
ほしいままに快を貪り始めた。
その結果というのが、現在のたらめで醜悪で何の節度もない
日本の風景なんだと僕は思いますね。
※快の打ち出の小槌より
確かに、郊外の国道沿いを車で走ると
どこも似たような景色が続く事に
うんざりすることがある。
マスコットやロゴをあしらい
夜間にはこうこうと光る大きな看板、
大手外食産業のチェーン店、
大きな駐車場を持つ
大型ショッピングセンター。
「快」に向かって一斉に、
てんでんばらばらに走ったが、
たどり着いたのは、みな同じような場所のようだ。
日本の各地に存在するそうした風景は
快を求めて同じ方向に走りだした結果を思わせると同時に、
合理主義という名のものとに作られたセットのようにも見える。
牛乳、冷蔵庫、靴は、もちろん
すでに紙で作られているカレンダーでさえ、
他の者と同様の質感で作り換えられるという
江口さんの作品群にも、
ある一つの思想に導かれている感がある。
きっと、機能性や生産性をも失った作品群は、
日常に氾濫する様々な思想とは
全く別の場所に向けて動き出そうと、
丁度、ふわふわと浮遊し始めた所なのだろう。
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